
栗山もすっかり冬です。冬といえば寒い→
寒いといえば「温泉最高」。勝利の方程式です。先日、読売新聞さんで
奥鬼怒(おくきぬ)温泉や
加仁湯(かにゆ)さんが大きく特集されたので、のっかってみます。
地震で被害があっても、へこんでいられない
新聞記事にまず書かれているのは、今年2月に起こった日光の地震による被害や苦労のこと。お客さんがゼロの時もあったそうです。それでも、加仁湯の小松社長は「
ファンのためにもへこんでらない」と力強く語っています。
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で、ここで1つ補足したいのが、
加仁湯さんの名前の由来についてです。記事にも「昔、近くにサワガニがいっぱいいたらから蟹湯(かにゆ)」とありますが、もう少し深く掘り下げます。
加仁湯さんの歴史について詳しい本はコレ

今の小松社長のおじいちゃんにあたる、「加仁湯のおやじ」こと
小松長久(ながひさ)さん(故人)が書かれた本です。これがおもしろい。ここに1つエピソードが書かれています。
加仁湯さんの名前の由来

明治時代に蟹湯と名づけたのは、長久さんのおじいちゃん。
小松峰吉さんです。小松峰って地名を残しちゃうくらい、すごい山男だったらしいです。
昭和9年になると、長久さんらが今の加仁湯さんのもとになる祖先館(※本ではそう表現されています)を建てます。母のタケさんは、長久さんに宿を継がせたかったようですが、当時は日本も戦争時代で、長久さんは陸軍に入ります。ここから長い間、蟹湯はしばらくちゃんと管理できない状態が続きました。
時は流れ、昭和20年(1945年)。第2次世界大戦が終わり、長久さんは昭和23年には兵役を離れます。13年ぶりに蟹湯に戻ると、大きなショックを受けることになります。なんと蟹湯は、
約13年間ほぼ無人小屋だったのに、中はほとんど荒れていませんでした。
鬼怒沼(きぬぬま)への登山をはじめとする
山の愛好者たちが、他人の家であるはずの蟹湯を守ってきたのです。それどころか、住所や氏名がそえられた宿泊料金なども、神社のおさい銭のようにならべてあったそうです。
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長久さんは心を強く打たれます。そして、
山の男たちから「仁」、すなわち「人のとしての道」を加えてもらったことから、加仁湯という名前を改めたそうです。
当時は、温泉の湧出量(ゆうしゅつりょう、湧き出る量ですね)が毎分60リットル。公式ホームページを見ると、平成17年の時点で毎分300リットル以上(スゲー)だそうですから、規模はまだ小さなものでした。心を入れ替えた長久さんは宿の立て直しを決意し、ツルハシ一丁で温泉の発掘に力をそそいだそうです。
長久さんはこのエピソードについて、最後にこう締めくくっています。
あれから30年、次から次へと温泉も湧出し、現在のように豊富な温泉に恵まれているのはひとえに山湯を愛してくれている人々のおかげである。心から感謝したい。

この名物露天の裏に、そんなエピソードがあったとは!奥鬼怒温泉や加仁湯さんは、こういった今までのファンのためにも、へこんではいられないのです。加仁湯さんに行く人はもちろん、栗山へ行く人も覚えておくとええ話でした。
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加仁湯 (じゃらん)
加仁湯の名前の由来 5秒コメント
栗山で雪見露天ができる季節も、だんだん近づきました
ちゃんと入れたら、紹介します